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BAR<バール>に灯ともる頃 / Che ora e? 1980年代、チヴィタヴェッキア(ローマ近郊)。兵役中の息子を訪ねてきた父が、息子と過ごす一日。
久しぶりに会った二人は、親子だというのになんとなくしっくりこない。息子のことを理解したいと思い、不器用な会話をする父親。「たくさん、しゃべったが、まだ何にも話しちゃいない」。会話を繰り返しても、なにひとつ収穫をあげられないことを象徴するセリフ。いくつかのプレゼントを用意してきたのだが、一番喜んだのは、祖父の愛用していた懐中時計。
自分が、息子の世界の100%であるわけはないのだが、そのことを目の前につきつけられたとき、平気でいられる人はいるのだろうか。その街での息子の知人に会い、ある意味において自分よりも息子のことを知っている人たちに、彼は嫉妬する。でも、たとえ、ちぐはぐでも、父は父だし、息子は息子。お互いをいたわる気持ちに偽りはない。そのいたわりを表現するのはちょっと照れくさいものだが。誰でも身に覚えのある話である。
「イル・ポスティーノ」の印象から、マッシモ・トロイージはシャイで物静かなイメージがあるが、本来はナポリのコメディ畑の人。まくしたてるようなことばのリズム、時間を聞かれて「1時5分32秒です」と時報のように、しかしちょっと自慢げに答える動作に、その一端が垣間見える。
映画中BARが3回登場する。BARは、飲み物(アルコールも含めて)と軽食を供する店で、人々の憩いの場でもある。3つのBARの少しずつ雰囲気の違うところも見てほしい。
映画中、「日曜の試合は−−−」などという会話が交わされるシーンがある。日本なら草野球に決まってるが、ここはイタリア、やっぱりサッカーの話である。
ロケ地 / チヴィタヴェッキア
チヴィタヴェッキアは、ミケランジェロの設計した要塞で知られる古い港町。また、伊達政宗のローマ使節団が上陸した地でもあり、支倉常長の像がある。「ピエトロのBAR」は、実際の建物の外壁だけ利用し、中は撮影用に手を入れたものだそうだ。
製作 / 1989 イタリア
監督 / エットレ・スコーラ
キャスト / 父 … マルチェロ・マストロヤンニ
ミケーレ … マッシモ・トロイージ
ロレダナ … アンヌ・パリロー媒体 / VIDEO,DVD
鳩の翼 / The wings of the dove 1910年、ヴェネツィア、ロンドン。 階級の違いが障害となり結婚に踏み切れないケイトとマートン。
マートンに財産さえあれば周囲も納得すると考えるケイトの前に現われたのは、莫大な遺産を相続しながらも、不治の病に冒されたミリーであった。女同士に芽生える友情、友情の裏で巡らされる策略、そして策略のために愛を偽る男。
策略をしかける貴族の女、ケイトは女の狡さを象徴するかのような存在。が、自分のしかけた計画にもかかわらず、計画がうまく運べば嫉妬も禁じ得ない。憎まれ役と言い切ってしまうのは難しい。人の気持ちはコントロールできるものではないということを二人は最後に思い知る。涙するような悲しさではなく、ためいきしかでないような、やるせない悲しさの残るストーリーである。
現実から逃避するためにヴェネツィアへ。訪れる人を非日常へと引きずり込む魔力ゆえか?その非日常の極みとも言えるヴェネツィアのカーニヴァルの光景も見られる。
ロケ地 / ヴェネツィア、ロンドン
- パラッツォ・バルバーロ … ケイトとミリーが滞在した館。ヘンリー・ジェイムズもかつてここに滞在し、この作品を執筆したという
- サン・マルコ広場 − サン・マルコ寺院 − ペッシェリエ(魚市場) − サンタ・マリア・デラ・サルーテ教会 − スクオラ・ディ・サン・ロッコ(? … 公開時のパンフレットにはこう記載されているが、建物内の明るさ、後のシーンで「教会」と表現していることから、サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ教会で撮影されたのではないかと思われる) − カフェ・フローリアン
- サン・ミケーレ島
製作 / 1997 イギリス [英語作品]
監督 / イアン・ソフトリー
キャスト / ケイト … ヘレナ・ボナム・カーター
マートン … ライナス・ローチ
ミリー … アリソン・エリオット
ケイトの叔母 … シャーロット・ランプリング
原作 / ヘンリー・ジェイムズ 『鳩の翼 (上・下)』 講談社文芸文庫 青木 次生【訳】
媒体 / VIDEO,DVD
サウンドトラック / 鳩の翼
薔薇の名前 / The name of the rose 1327年、北イタリア。修道院内で起きる奇怪な連続殺人事件。当時見習い修道士であったアドソの回想。
ベネディクト会の修道院を会議のために訪れた、フランチェスコ会の修道士ウィリアムと見習い修道士のアドソ。到着早々院長から依頼されたことは、ある若い修道士の死に関する謎の解明。その謎解きが終わらないうちに、一人また一人と、命を落とす修道士。その裏に見え隠れする一冊の本。
宗教は魂を救済するものであり、信仰心は疎まれるものではない。だが、それが、宗教のための宗教、信仰のための信仰になってしまったとき、本来の目的を見失うこともある。
全体的に暗いトーンの画面が、見えない犯人に対する恐怖心を増幅する。ウイリアムの注意深い観察から、手がかりの断片が導き出される謎解きのシークエンスは鮮やか。計算されたストーリーであり、宗教的な背景を理解していなくても、推理ものとして十分楽しめる映画である。
ロケ地 / ローマ、ドイツ
修道院内部分の撮影にはドイツの修道院、Kloster Eberbachが使用された。外観はローマ郊外に屋外セットを組んで撮影された(撮影風景:ウンベルト・エーコのサイト)。
舞台となった地域は北イタリア、ボッビオ近郊(ジェノヴァとミラノの中間に位置する都市)と思われる。この地域にはベネディクト会系の僧院が多い。 また、文書館の迷宮については、カステル・デル・モンテ(南イタリア、バーリの西方)の迷宮構造にヒントを得ているようである。
(参考:『薔薇の名前(東京創元社)』 後書き部分)
製作 / 1986 フランス・西ドイツ・イタリア [英語作品]
監督 / ジャン・ジャック・アノー
キャスト / バスカヴィルのウィリアム … ショーン・コネリー
メルクのアドソ … クリスチャン・スレーター
ベルナール・ギー … F・マーレイ・エイブラハム
原作 / ウンベルト・エーコ 『薔薇の名前〈上〉』 『薔薇の名前〈下〉』 東京創元社 河島 英昭【訳】
媒体 / VIDEO,LD,DVDFan page (英語)
遥かなる帰郷 / La Tregua 1945年、アウシュヴィッツ、トリノ他。第二次世界大戦中、アウシュヴィッツに強制収容されていたユダヤ系イタリア人、プリモ・レヴィの自伝的小説の映画化。収容所から開放されて、故郷トリノまでの帰郷の道のり。
プリモは他のユダヤ人と同様、アウシュヴィッツに収容されていたが、ソ連軍の介入により開放される。突然手に入れた自由に戸惑うユダヤ人たち。ともあれ、彼らは自分たちの故郷イタリアへ帰るべく、列車に乗り込む。しかし、その道のりは平坦であるはずがない。プリモは、あくの強いギリシア人、美しい看護婦、そして幾多の同胞たちと出会い、別れ、助け、助けられ、イタリアへ戻っていく。
なにより印象的なのは、開放された時に、六芒星(ユダヤの星)が縫い取られた服を、再び着るプリモ。もう思い出すのも嫌なことであるはずの、ユダヤ人迫害について「忘れないために」と、その服を着るのである。
これと対照的に、その服を火にくべて燃やしてしまうダニエーレ。だが、服を燃やしたところで、その腕に刻まれた6桁の番号は消えることはない。
そしてプリモは言う「ナチの最大の罪は我々の魂を打ち砕いたことだ。人を思いやる心を憎悪で満たしたことだ。お互いに対してさえ」
忘れたいことには違いないが、忘れてはいけないことである。ナチのホロコーストを、とかくひとごとのように捉えがちであるが、日本もナチを助長した国であることを忘れずにいたい。
プリモ・レヴィはこの小説の映画化決定を聞くと、過去の事実が埋もれてしまうことなく世間に広く知られるであろうことを喜んだそうだが、なぜか、それから一週間ほど後に、自ら命を絶ったそうだ。
ロケ地 / トリノ、他
トリノの街が移るのはほんの数分だけである。
製作 / 1996 イタリア・フランス・ドイツ・スイス
監督 / フランチェスコ・ロージ
キャスト / プリモ … ジョン・タトゥーロ
ダニエーレ … ステファノ・ディオニジ
モルド(ギリシャ人) … ラーデ・シャルベジヤ原作 / プリモ・レヴィ 『休戦』 朝日新聞社 竹山 博英【訳】
媒体 / VIDEO
ピノッキオ / Pinocchio コッローディ原作の童話(1883年出版)の映画化。
ある日ジェペットの家に転がり込んできた丸太から作られたピノッキオ。人形なのに動き回り、話し、いたずらをする。やんちゃなピノッキオは、まるで、ほんとうの人間の男の子のよう。約束を守らなかったり、騙されたりを繰り返したピノッキオは最後に人間の子どもになることができた。
ストーリーは、よく知られている話のとおりであり、モチーフの順序を入れ替えたりしているものの、ほぼ原作どおりの展開。ベニーニによれば「原作に限りなく忠実なオリジナルストーリー」を目指したのだという。
上澄みをさらっとすくえば、50歳のベニーニ演ずるピノッキオに無理を感じつつも、なんのことはない子ども向けの教育的ファンタジー。ただ、おそらくは、ベニーニが意図していたのは別のものだということが、ラストシーンで示唆される。鍋底にあるものは意外と濃厚だ。
ピノッキオに訪れた変化、嘘つきないたずらっ子→(見かけは)従順な良い子という変化は、果たして”正解”だったのか。さらに言えば、正解はひとつしかないのか、”人形である”ピノッキオにだけ生じる問題なのか、子どもだけの問題なのか、というところに行き着くのだろう。自我を抑えた従順な人間になってしまうことは、ある意味、都合のよいことではあるけれど、同時につまらない人間になってしまうこと。映画の中でたった一つの「本当のウソ」は、「人間の子どもになれて嬉しいよ」というセリフなのだとベニーニは言う。だとすれば、そのあたりに彼の意図があったといえるだろう。
「つまらない人間にはなりたくない」---それは誰にでも言えること。だから「50歳のおじさんが演じるピノッキオもあり」なのである。言い換えれば、このテーマを伝えるには、子どもであり人形であるという設定の対極にある役者が演じなければ意味が際立たない。
テーマを考えると大人向けのお話。吹替え版に誘われて観てしまった子どもたちは、その意図を理解できず「50歳のピノッキオ」の違和感を拭えないまま映画館を後にしたのではあるまいか。
映像的には、コッローディの初版本挿絵を参考にしていることが明白。以下のサイトにイタリア語原文と挿絵が掲載されているので、鑑賞の際に合わせて見てみるのもおもしろい。 → Letteratura Italiana
ベニーニがフェリーニの「ボイス・オブ・ムーン」 に出演した際に、ベニーニをピノッキオ役とした映画化の構想が練られていたというのは、有名な話。また、イタリアでは1974年にコメンチーニによる「ピノッキオ」のテレビシリーズが放映された時、少し遅い時間の放映にもかかわらず、子どもたちはこれを見るためだったら遅くまで起きていていいと親から許されていたそう。このようにイタリア社会に浸透しているピノッキオが、フェリーニ、ベニーニの手を経て遂げた成長は、予想以上に大きかったと感じた。
ロケ地 / 一部トスカーナの田園地帯などロケ部分があるが、ほとんどはセットによる撮影
コッローディは当時のフィレンツェを舞台に作品を書いているため、実際の建物などがモデルとなっているものもある。
製作 / 2002 イタリア・アメリカ
監督 / ロベルト・ベニーニ
キャスト / ピノッキオ … ロベルト・ベニーニ
ジェペット … カルロ・ジュフレ
青い妖精 … ニコレッタ・ブラスキ
ルシーニョロ(ピノッキオをそそのかす泥棒) … キム・ロッシ・スチュアート
原作 / カルロ・コッローディ 『新訳 ピノッキオの冒険』 角川文庫 大岡 玲【訳】
媒体 / VIDEO, DVD → 通常版、
「ピノッキオ」「ライフ・イズ・ビューティフル」 ロベルト・ベニーニツインパック
サウンドトラック / ピノッキオOfficial site
Official site (イタリア語)
ひまわり / I girasoli 1940〜50年代、ナポリ、ミラノ、ロシア。第二次大戦でロシア戦線に送られ、行方不明になった夫。ようやく探し当てた時には、夫はロシア人女性と家庭を築いていた。
ナポリでアントニオはジョヴァンナと知り合い、恋に落ち、彼女に押し切られるように身を固めてしまった。結婚後にもらえる2週間の休暇も終わり、なんとか、軍隊に戻らずにすむよう画策するのだがうまくいかない。結局アントニオはロシア戦線へと送られてしまう。
だが、戦争が終わってもアントニオは帰ってこない。死亡の知らせがないのはどこかで生きている証拠と、ジョヴァンナはロシアへ彼を捜しに行く。アントニオらしい人がいると教えられた家を訪ねると、洗濯物を取り込んでいる女性がいる。ジョヴァンナは彼女を見て状況を察し、また、彼女もアントニオの写真を見せられて、一瞬にしてすべてを理解する。
無言のうちに、ふたりの女性の抱える様々な思いが見える。そして、このシーンは大地一面に広がるひまわり同様、印象深い。
ボタンを掛け違えた服のように、一度すれ違ってしまった二人の人生はもう交わらない。戦争によって、二人の人生は変わってしまったのだ。「あなたの息子は私が捜して、連れて帰ってくる」と義母を元気づけたナポリ女のたくましさが、かえって再会後の虚ろな寂しさを増幅させる。
「約束しただろ」とプレゼントを差し出すアントニオ。お互いを思う気持ちがなくなったわけではない。ただ、もう一緒には暮らせない。もう元には戻れないとわかっているからこそ、きっぱりと別れたいのだ。女の強さと弱さ、男の優しさと狡さが見え隠れするストーリーである。
設定は異なるが、イタリア女性とロシア女性の間を揺れ動く男を描いたもうひとつの作品「黒い瞳」も合わせて観てほしい。この2本、奇しくもキーとなる男性を演じるのは、同じ俳優。イタリア映画の顔、マルチェロ・マストロヤンニである。
ロケ地 / ミラノ、ナポリ? ロシア
ミラノ
- ガレリア(ヴィットリオ・エマヌエーレ2世アーケード)、ドゥオーモ…冒頭のシーン、窓の外にガレリア、ドゥオーモが見える。ドゥオモ広場を挟んで向かい側の建物での撮影か?
- ミラノ中央駅 … アントニオがジョヴァンナに電話してくるシーンも駅内である。その他見送りのシーン等。
製作 / 1970 イタリア・フランス・ソ連
監督 / ヴィットリオ・デ・シーカ
キャスト / ジョヴァンナ … ソフィア・ローレン
アントニオ … マルチェロ・マストロヤンニ
マーシャ … リュドミラ・サヴェリーエワ
フェリーニのアマルコルド / Amarcordo 1930年代、北イタリアの地方都市。フェリーニの出身地であるリミニが舞台となった都市のモデル。断片的な想い出を綴ったノスタルジックな自伝的映画。
綿毛の舞う春、祭りの焚火に集まる人々。夏の日、精神病院に入っている叔父のテオを連れ出し、屋外で家族とテーブルを囲む。秋も深まり乳白色の霧に包まれ目の前の風景さえ見失う。積もった雪のせいで迷路のようになった街で憧れのグランディスカの姿を追う。そして春、海辺でのグランディスカの結婚式、綿毛の舞う季節が訪れる。
おそらくはフェリーニ自身が若き日に体験したであろうことが少年ティッタの目を通して語られ、積み重ねられていく。それらは、ひとりの少年が−−誰がということではなく−−形こそ違ってもみな通過してくるものを描いている。仲間との夜遊び、大人の女性への憧れ、母との蜜月の終わり……。
タイトルの「アマルコルド」とは、「私は覚えている」という意味の「Mi Ricordo」がエミリア・ロマーニャ地方(リミニのある地域)の方言で発音されたもの。フェリーニの少年時代の記憶の断片の中に、あなたのそれと重なるものがあるかもしれない。
同じように、フェリーニがその思いをコラージュした”ローマ”。フェリーニが映画監督として活躍した街をテーマにした”ローマ”を、この作品と対にして鑑賞するのも興味深い。
ロケ地 / リミニ
製作 / 1973 イタリア・フランス
監督 / フェデリコ・フェリーニ
キャスト / ティッタ … ブルーノ・ザニン
グランディスカ … マガリ・ノエル媒体 / VIDEO
サウンドトラック / フェリーニのアマルコルド →
フェリーニの8 1/2 / Otto e mezzo 1960年代、ローマ。次の作品の製作にあたって、行き詰まりを感じ思い悩む映画監督を描いた映画。フェリーニ自身の自伝的な作品。タイトルはこれまでに彼が監督した作品の本数。1/2はラットゥアーダと共同監督した「寄席の脚光」。この作品以後、他の監督による同種の映画が製作されるきっかけとなる。
映画監督グイドは、新作のクランク・インが間近かに迫っているにもかかわらず、作品の構想がまとまらず、悩んでいた。周囲の人々に言い訳しつつ療養のため温泉地で過ごすグイドだったが、彼の妻も愛人も、悩み事を増やすばかり。悩んだ末に彼が出した結論は、現在の自分の状況、つまり「製作に行き詰まった映画監督」の映画を撮ることだった。
自分自身の体験を作品化した私小説は、文学の世界ではさして珍しいことではない。ただ、映画界においてはこの作品が「最初の一歩」であり、革新的な作品だった。
そうは言ってもフェリーニの作品である。作品中で製作されているのは、この作品そのもの。この作品を見た批評家たちが口にしそうなことばが、既に作中でも語られている。「意味のないエピソードの羅列にすぎない」などという批評は、当時既に他の作品に対しても発せられたことばだろうし、フェリーニ自身もそのような批評は承知していたこと。フェリーニの方が一枚上手か。
ただ単に現実を追求するだけにとどまらず、少年時代のエピソードと思しきフェリーニ特有のファンタジーもしっかりと存在し、リアリティとファンタジーが融合した希有な作品となっている。フェリーニの”分身”、マストロヤンニも存在感あり。
温泉治療として「鉱泉を飲む」ことを指示されるグイド。イタリアには日本のような湯に浸かるタイプの温泉もあるが、鉱泉を飲むというだけの温泉も多い。
ロケ地 / オスティア、フィラッチアーノ(Lazio)
製作 / 1963 イタリア・フランス
監督 / フェデリコ・フェリーニ
キャスト / グイド … マルチェロ・マストロヤンニ
ルイーザ … アヌーク・エーメ
カルラ … サンドラ・ミーロ
クラウディア … クラウディア・カルディナーレ媒体 / VIDEO、DVD(愛蔵版)、DVD(普及版)
サウンドトラック / フェリーニの8 1/2
フェリーニのローマ / Roma 1970年代、ローマ、リミニ。監督、フェデリコ・フェリーニ自身のローマへの想い。これといったストーリーはなく、いくつもの想いをコラージュしたような作品。
子供時代、スライドでみるローマの風景。リミニのルビコン川近くにあるローマへの距離を示す標識。ローマへ出てきた青年がアパートで出会う人々。ローマを巡る高速道路。ボルゲーゼ公園を訪れる観光客。場末のボードヴィル小屋。地下鉄工事の途中で発見される壁画。スペイン階段にたむろするヒッピーたち。公娼の館。教会のファッションショー。ノアントリ祭。ローマを駆け抜ける暴走族。
「ひとりで食事をすると悪魔が寄り付くわ」
地方都市から出てきた青年が(若き日のフェリーニか?)一人でトラットリアに現れると、こう言われて無理矢理相席にさせられる。ローマは他人に干渉しないところがよい、とも別のシーンで言っているが、なんのなんの。しっかり干渉して、なにかと世話をやくトラットリアの女主人。本当はローマのそんなところも、気に入っていたのではないかと思う。「タイトルは『純潔の鳩』、遊び心のある頭の羽が修道院の換気をよくします。」
教会のファッションショーは見もの。教皇、修道女、修道士など、聖職に就くものたちのショーはきらびやか。それぞれにつくコメントには皮肉も。
「ローマでは100メートルごとに遺跡にぶつかる。地下鉄工事がすすまない。」
外気に晒されたとたんに色褪せていく壁画。古いものと新しいものは相容れないのだろうか。
小さなエピソードを通して、フェリーニはローマという街を愛していたのだということが伝わってくる。好きなところも嫌いなところも含めて。
「すべての道はローマへ通じている。そう思っていたが、いまや、ローマへ通じる道は高速道路になってしまった。」とは、感慨深いセリフ。
ロケ地 / ローマ
- テルミニ駅、共和国広場 … ローマへ出てきた青年がアパートへ行く途中で通る。
- コロッセオ … 渋滞する車に囲まれたコロッセオ
- ボルゲーゼ公園(シエナ広場)、スペイン階段
- ラストシーンのオートバイはサンタンジェロ城、ナヴォナ広場、スペイン広場、ポポロ広場、バルベリーニ広場を抜け、コロッセオへ。
リミニはフェリーニの出身地でもあり、少年時代のシーンはリミニを舞台にしたものと思われるが、セット内の撮影のようである。
製作 / 1972 イタリア・フランス
監督 / フェデリコ・フェリーニ
キャスト / フェデリコ・フェリーニ
アンナ・マニャーニ
マルチェロ・マストロヤンニ媒体 / VIDEO, LD, DVD
サウンドトラック / フェリーニの ローマ
白夜 / Le notti bianche 1950年代、リヴォルノ。恋人の帰りを待ち続けるナタリアと、彼女に恋したマリオの4日間の物語。
ある夜マリオは橋のたもとで泣いているナタリアと出会った。ナタリアにはかつて愛し合った人がいたが、仕事の都合で街を離れていた。その彼が街に戻って来たのだと聞き、約束の橋で待っているのだという。しかし彼は現われず、ナタリアは毎夜、橋に通う。そんなナタリアにマリオは愛を告白し、ナタリアも心が傾きかけていた。
回想シーンの白い室内と現実の夜の闇、白と黒の対比が美しい。モノクロ作品としての美しさが際立つ映像。ストーリーは前作「夏の嵐」に引き続きメロドラマ。ナタリアが大切にしている過去の恋愛と、「女性には臆病で」と言いつつ饒舌に話しかける、軽くもあり熱っぽくもあるイタリア男、マリオとの目の前にある恋愛。二つ恋愛、二人の男性のあいだを揺れ動くナタリアの気持ち。初めは警戒していたナタリアが、少しずつマリオとの時間を楽しみにするようになるあたりの緩やかな心情の変化がリアル。
ナタリアを演じたマリア・シェルは、純粋そうなルックスで、マリオが一目惚れするのも無理はないという可愛さ。その可愛さに、彼女の身勝手さを見過ごしそうになるほど。本人が意識していないから、ことさらその行動が残酷に思えるのか。
恋人については無駄な説明がないため、かえって想像を掻き立てらる。約束は守るタイプで仕事もできるけれど何かを隠しているような秘密めいた感じが漂う。実は彼のほんとうの仕事はスパイなのでは?と思いたくもなる。
楽しそうなダンスシーンの合間に、テーブルで語らうふたりを窓越しから見るショットに暖かなものを感じる。印象的。しかし、その直後に、時間を知って逃げるように走るナタリアはシンデレラのよう。魔法が解けて、ふたりの楽しい時間も終わりを告げる。
ネオ・レアリズモの先駆者、ヴィスコンティの作品としては異例の全編セットによる撮影。そのため舞台で演じているのをフィルムに収めたかのような印象を受ける舞台的な絵でもある。また、ストーリーも4日間のできごとであるため、時間的にも空間的にも箱庭的印象が強い。「夏の嵐」の撮影に時間も費用もかかったことから、本作では時間も費用もかけずに製作しようとした、マリア・シェルのスケジュールの都合で短期間の撮影しか許されなかった、等のエピソードがある。ロベール・ブレッソン監督による同名の映画は、同じドストエフスキーの作品を映画化したもの。なお、レオス・カラックス監督の 「ポンヌフの恋人」とも設定等が似ているが、こちらは特にドストエフスキーの作品とは関係がないらしい。
タイトルの「白夜」は、原作タイトルの翻訳であり、原作の設定がサンクト・ペテルブルグの白夜(つまり夏の夜)の4日間を描いたものであることから。ヴィスコンティはその舞台を冬のリヴォルノに移し、雪を降らせて真っ白な世界=真っ白な夜にしてしまった。「白い夜」であることには違いない。それとも「眠れぬ夜」とだけ捉えていたのだろうか。
「白」+「夜」の表現の意味する範囲が言語によって違うのに、気にせずそのままつけてるあたりに問題があるのではないか。ちなみに各言語での原作タイトル、意味の比較は以下のとおり。
ロシア語 英語 イタリア語 日本語 原作タイトル БЕЛЫЕ НОЧИ
(白い+夜 )The white nights Le notti bianche 白夜 意味 太陽が沈まない夏の夜(眠れぬ夜の意味があるかは不明) 眠れない夜 眠れない夜 太陽が沈まない夏の夜 「太陽が沈まない夏の夜」を表すことば БЕЛЫЕ НОЧИ
(白い+夜 )midnight sun sole di mezzanotte 白夜 参考:ドストエフ好きーのページ
ロケ地 / 舞台はリヴォルノだが全編チネチッタでのセットによる撮影
ネオ・レアリスタのヴィスコンティの作品としては珍しいものである。
製作 / 1957 イタリア・フランス
監督 / ルキノ・ヴィスコンティ
キャスト / マリオ … マルチェロ・マストロヤンニ
ナタリア … マリア・シェル
ナタリアと約束をする男 … ジャン・マレー原作 / フョ−ドル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー 『白夜』
角川文庫 小沼文彦【訳】
媒体 / VIDEO, LD, DVD/ヴィスコンティ DVD-BOX 3
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