明日、陽はふたたび 明日を夢見て 甘い生活 ある貴婦人の肖像 アルテミシア

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明日を夢見て / L'uomo delle stelle

1950年代、シチリア。映画の新人オーディションと偽り詐欺を働くジョーがカメラ越しに見た人々。そしてベアータとの出会い。オーディションという形式を通してシチリアの庶民の暮らしをそれぞれに語らせた秀作。

ジョーはシチリアの田舎町で映画の新人オーディションだと称し、フィルムテストをしていた。撮影したフィルムはローマで審査されると言ってはいるが、実は参加費用を騙し取るための嘘だった。そうとは知らない人々は、カメラの前で自分のことを語り始める。ジョーはある日、カメラの前に立った女性・ベアータにそれまでの人々に対してのものとは違った感情を抱く。その後、ベアータに助けられたことをきっかけにふたりは行動を共にするようになるが、ジョーの詐欺がバレてしまい……。

普段はおとなしい者たちが、カメラの前に座ると饒舌に語り出すのがおもしろい。淡々と語る者もあれば、芝居がかっている者もあり、また、これを機に誤解を解こうと熱弁する者、遠い日の想い出を語り出す者と、それぞれの個性が直接、見ている自分に語り掛けてくるようである。語る内容も、豊かとは言えない暮らしであったり、過去のつらい体験であったり、虐げられた女性の現実であったり。それはそのまま、シチリアの庶民の描写となっている。

盲目的にジョーを追いかけるベアータが切ない。彼女にとってはジョーが何者であろうと関係ないのだろうと想像させるほど、その姿は一途だ。きっと、ジョーが天使でも悪魔でも、王子でも乞食でも、構わなかったのだ。それ故、ジョーとベアータの再会のシーンは胸を締め付けられる思いがする。軽い気持ちでの詐欺が、取り返しのつかない結果を招いたことは、悔やみきれないことだろう。

村のみんながみんな「明日は明日の風が……」とセリフの練習をするところで笑いを誘い、映画をテーマにストーリーの本流は進む中、後半にはロマンスも描かれる、というトルナトーレのパターンは他の作品でも見られるもので、好みの分かれるところだろう。

「風と共に去りぬ」「揺れる大地」「クォ・ヴァディス」「西部の娘」という名画や、ロッセリーニデ・シーカヴィスコンティというイタリア映画界の巨匠の名前が飛び出す。日本でも人気の高い作品・監督の名前に、映画好きの方はシチリアの人々に親近感を覚えてしまうのではないだろうか。

カメラテストを受ける老人の中に、千人隊の生残りという人がいる。千人隊とは、イタリア統一時の英雄ガリバルディが率いた義勇軍。しかし、ガリバルディのシチリア上陸は1860年である。いったい老人は何歳なのか。

ニュー・シネマ・パラダイス」とは違った切り口で綴られているの映画への想い。「ニュー・シネマ・パラダイス」と合わせて楽しみたい。


ロケ地 / ラグーサ・イブラ、マテーラ、他シチリア各地

ラグーサ・イブラ

  • サン・ジュゼッペ教会前 … オーディションのシーン

製作 / 1995 イタリア
監督 /
ジュゼッペ・トルナトーレ
音楽 /
エンニオ・モリコーネ

キャスト / ジョー・モレッリ … セルジオ・カステリット
ベアータ … ティツィアーナ・ロダト [映画の設定そのままで、1.000人の一般人の中からオーディションで選ばれたのだそうです(情報提供 : N5さん)]

媒体 / VIDEO

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甘い生活 / La Dolce vita

1960年代、ローマ。”甘い生活”を享受しながらも満たされない日々を送るマルチェッロと彼の周辺の人々。

毎晩のようにパーティーにでかけ、あくせくと働かなくとも明日のパンに困ることはなく、ましてや今夜のベッドのお供にもことかかない。そんな”甘い生活”を送るゴシップ紙の記者マルチェッロだが、彼にとってこの生活はけして満たされたものではない。ストーリーは、そのマルチェッロと彼の周辺の人々を描いていく。

マルチェッロの浮気を苦に自殺を図る同棲相手。自由奔放・天真爛漫な女優。聖母を見たという子ども。キャバレーで飲みすぎて、具合が悪くなる父親。理想の生活スタイルを実践していたのに、自殺してしまう作家。満たされていないのはマルチェッロひとりではない。誰もが幸福そうに見えて、その実は、そう見えているだけ。

成長期の少年の膝の痛みのような、当時のイタリアの高度成長期のひずみから生じる”痛み”の漂う作品である。物質的に満たされていることを「幸せ」とよんでいた頃は過ぎた。それだけでは足りない。精神的な豊かさが伴わなければ、どこか虚ろな部分が残り、いつまでも満たされた気持ちにはなれないのだ。

女優・シルヴィアに誘われ、トレヴィの泉に入っていくマルチェッロ。水の音が、一切の音が、消えるそのシーンは印象深い。

ラストシーン、打ち揚げられた怪魚(エイに見えるが)に象徴されるものは、手におえないほどの変貌を遂げていく社会そのものか、自身でもコントロールできなくなった心の歪みか?

マルチェッロの相棒で「パパラッツォ」と呼ばれる男がいるが、これは、ゴシップのスクープ写真を狙うカメラマン。ダイアナ元妃の事故で有名になったことば「パパラッツィ」と同じであり、本来はフリーのフォトジャーナリストを指すことばである。


ロケ地 / ローマ

  • ヴェネト通り … 夜ごとの”甘い生活”のプロローグを飾る華やかな通り。屋外のテーブル席のあるリストランテも、実はチネチッタ内に作られたセットによる撮影であり、当時はまだ、映画ほどには華やかな場所ではなかったらしい。
  • サン・ピエトロ大聖堂 … クーポラ(円蓋)を登り、広場を臨む
  • トレヴィの泉 … マルチェッロとシルヴィアが泉に入るシーン

製作 / 1960 イタリア・フランス
監督 /
フェデリコ・フェリーニ
キャスト / マルチェッロ … マルチェロ・マストロヤンニ
シルヴィア …
アニタ・エクバーグ
マッダレーナ … アヌーク・エーメ

媒体 / VIDEO, DVD
サウンドトラック / 
甘い生活

甘い生活 デジタルリマスター版

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ある貴婦人の肖像 / The portrait of a lady

19世紀末、イギリス、フィレンツェ、ローマ。なに不自由ない暮らし、申し分のない男性たちからのプロポーズに満足せず、それまでの型にはめられた女性の生き方に反発するイザベルと、彼女を見守る従兄弟・ラルフ。

両親を失ったということを除いては、なに不自由ない暮らしを送っていたイザベル。彼女を思うラルフは、自分が結核を患っていたため、彼女のために自分の父親の遺産が転がり込むよう画策する。それが、彼が彼女のためにできる只ひとつのことであるかのように。美しさと教養と家柄とがある彼女に財産の後ろ盾が付く。それまでも、いくつものプロポーズを断り続けていた彼女だが、これをきっかけに、型にはめられた女性としての人生を送るのではなく、見聞を広め自立した女性の生き方を模索しようと決める。

そのイザベルの裏で彼女の財産を狙う話が、マダム・マールとオズモンドとの間でまとまる。策略は成功し、オズモンドは彼女の財産で裕福に暮らし始める。

型にはまった結婚を拒否しつづけていたイザベルの気持ちを変えたものは、オズモンドのキス。それまでの紳士的な求婚者たちとは違って、オズモンドはイザベルに情熱的なキスをしたのだった。お嬢様の満たされないものは性欲だったというのが、鋭いというか、情けないというか。自立しようとして自立できないばかりか、自分を想ってくれる人も見分けられないイザベルの悲しさ。オズモンドの娘の、頑ななまでに父のことばに従順な姿。イザベルは自分も彼女と大差ない”籠の鳥”となってしまっていることに、気づいていたのだろうか。

見ていてはがゆくなるほど、イザベルは自分の足で前に進むことができない。自分ではそうしているつもりでも、籠の鳥は籠の中。それは、彼女自身の問題ではなく、この時代に生きる貴族の女性に共通する問題だったのかもしれない。

経済的に問題を抱える男女、遺産を相続した女性、その遺産を狙う偽りの愛。モチーフは同じ原作者による「鳩の翼」と酷似しているので、そちらも合わせて観たいところ。ただ映画としてのできは、「鳩の翼」のほうが数段上であると思う。

文芸作品風の映像の中に挿入された、サイレント時代の記録映画風のモノクロの映像。奇を衒ったもののあまり効果的ではないように思う。時間の流れと彼女の心の揺れを表現したかったのだとは思うが、前半積み上げてきた雰囲気がこの部分によって壊されてしまった感じ。

この作品では、俗世との関わりたくないオズモンドが、創作に没頭するための場として、フィレンツェの街が登場する。その後、イザベルの財産で暮らすようになった彼が選んだのはローマであった。イタリアは、イザベルに転機をもたらすが、それはけして幸福なものではなかった。


ロケ地 / フィレンツェ、ローマ

背景にフィレンツェのドゥオーモが見える程度


製作 / 1996 イギリス[英語作品]
監督 / ジェーン・カンピオン

キャスト / イザベル … ニコール・キッドマン
オズモンド … ジョン・マルコヴィッチ
マダム・マール … バーバラ・ハーシー
ラルフ(従兄弟) … マーチン・ドノヴァン
パンジー (オズモンドの娘)… ヴァレンチナ・チェルビィ
原作 / ヘンリー・ジェイムズ 『ある婦人の肖像 ()』 岩波文庫
     行方 昭夫【訳】
関連書籍 / 『ある貴婦人の肖像』 ローラ・ジョーンズ 【著】 徳間文庫 
         … 映画脚本。写真も多数掲載。
媒体 / VIDEO, LD,
DVD
サウンドトラック / ある貴婦人の肖像

Related page (英語)

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アルテミシア / Artemisia

1610年、ローマ。実在の画家であり、歴史上に初めて名前が登場する女流画家、アルテミシア・ジェンティレスキの半生を描いた作品。

画家である父の仕事を手伝いながらスケッチを繰り返し、絵を描くアルテミシア。当時画家といえば男性であり、アカデミアも女性であることを理由に入学を拒否され、勉強の道は閉ざされていた。残された方法は、個人的に他の画家に師事すること。結局父の仕事上のライバルでもあるアゴスティーノにその才能を認められ、弟子入りすることになった。が、彼女はそこで画家として学ぶだけでなく、女としての歓びも知ってしまう。

アゴスティーノとアルテミシアとの関係を巡って、彼女の父親も含めた周囲の人々は騒ぎ立てる。彼女を守ろうとして、父のとった行動がかえって、アルテミシアにのしかかってくる。奔放であると同時に純粋であったがゆえに。

女性が男性のように生きるのではなく、女性のまま男性と同じことをしようとする。当時そのためには、たいへんな苦痛がともなったということであろう。たとえ才能ある者であっても。ストーリー後半は、彼女を思う周囲の人たちによって愛する人から引き離されていく女性の痛みと、周囲に理解されない悲しみが伝わってくる。

女性の権利を主張するような内容ではけしてないのだが、女性であるがゆえにせおってしまったものの存在を意識せずにはいられない。

映画中に登場する作品「ユディトとホロフェルネス」は、フィレンツェのウフィッツィ美術館・ヴァザーリの回廊に展示されている。また、彼女の作品のような強烈な明暗の対比を用いる絵画の手法は、カラヴァッジオに端を発するものとして、これらの手法を用いる画家たちを「カラヴァッジスキ」という。


ロケ地 / ローマ?


製作 / 1997 フランス ・ イタリア [フランス語作品]
監督 / アニエス・メルレ

キャスト / アルテミシア … ヴァレンチナ・チェルビィ
アゴスティーノ … ミキ・マノイロヴィチ

媒体 / VIDEO

Official site
Official site(英語)

アルテミシアの絵画についてはこちらで
Artemisia Gentileschi (イタリア語)

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明日、陽はふたたび / Domani

1990年代、カッキアーノ。古くからの丘の上の街を襲った大地震。地震によって壊された街とひとびとの生活。再生していく中で否応なく変化する人間関係。

夜中に起こった大地震をきっかけに非日常的な生活を強いられるようになったカッキアーノのひとびと。住宅が不足しているため、複数の家族でひとつの住宅に住むことを余儀なくされる。教会も学校もバールも、街中が地震の前とは違う。その中で変化していく人間関係や見えてきたもの、ひとびとの思いを丁寧に描写した作品。

復興のために奔走し、家族のための時間が減ってしまった父親。その一方で、同居することになった男性に優しくしてやる母親。そんな両親の関係が心配でしかたないアゴスティーノ。痴呆の症状が出始めた老女を笑うアゴスティーノの兄フィリッポ。仲良しのヴァーレとティーナはふたりともアゴスティーノが好き。教師のベティは自分のルックスにコンプレックスを持っているが、イギリス人の修復士アンドリューと親密な関係に。妻は子どもが欲しくてたまらないのに、子どもよりも聖母マリアの絵の修復に気持ちが向いているアンドリュー。

押し込められた空間の中で、男女の関係も、おとなと子どもの関係も、女同士の友情も、少しずつ以前のままではいられなくなってくる。 空間は密度を増し、他者との関わりは避けられない。そして、ひとびとは己の弱さをさらけだして、強く、たくましくなっていく。復興していく街の変化と同時に描かれる人間関係の変化。時には子どもの目線で、時にはおとなの目線で。各々のエピソードを積み重ねながら、街は再生していく。

ただでさえ、感受性が強い年頃の少年・少女たちの心情は、地震などなくても揺れ動き、変化するもの。さらに地震による環境の変化というファクターが加われば、その変化も加速する。大人たちの行動に敏感になり、それを理解し自分を納得させようと行動するアゴスティーノに代表される彼らの心情やその変化の描き方が秀逸。特にフィリッポがモッチャ夫人に靴を履かせてあげたシーンは、彼の変化が如実に描かれていて印象的。つらい状況の中でも子どもたちはそれぞれ、確実に成長しているのだ。思春期の少女の描写はアルキブジの得意とするところ。ラストシーンは、時間の流れを’可愛く’見せたという感じで「かぼちゃ大王」のラストにも通じるものがある。

1997年に実際にウンブリア地方で起こった地震の話が元となっており、ロケ地もその地震の被害にあった街なので、映像はアッシジを思わせるものがある。ストーリー自体はフィクションだが、細かなエピソードなどは地震の体験者に取材しているそうだ。おそらく「教会より先に家を修理してくれ」というのは、実際のウンブリアの地震でも言われていたことなのだろう。

カッキアーノの財産であり、修復の対象となる絵画は、フラ・アンジェリコの「受胎告知」。フィレンツェのサン・マルコ修道院にある作品を基にしたものと思われる。 → Web Gallery of Art


ロケ地 / セッラーノ

カッキアーノは架空の街。実際のロケは、97年の地震により廃墟となってしまったセッラーノという街で行われた。


製作 / 2001 イタリア
監督 / フランチェスカ・アルキブジ

キャスト / アゴスティーノ … ダヴィド・ブラッチ
フィリッポ(アゴスティーノの兄) … ニッコロ・センニ
ステファニア(アゴスティーノの母) … オルネッラ・ムーティ
文化庁の役人 … パオロ・タヴィアーニ
関連書籍 / 『明日、陽はふたたび』 
         フランチェスカ・アルキブジ 【著】
         吉岡 真名実 【訳】 愛育社 
         … アルキブジ自身によるノベライズ。
媒体 / VIDEO,DVD

サウンドトラック / Domani

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